第三革命(護国戦争)後期においては、唐継尭は大幅な軍拡を実施し、四川に勢力を広げ、1917年4月に至る8ヶ月間、四川の劉存厚の軍隊と成都、資陽、内江などで何度も衝突した。同年7月に段祺瑞が国務大臣復帰後に、中華民国臨時暫定憲法を回復することを拒絶、唐継尭は孫文の掲げた護法旗幟の名を利用して軍拡を実行し、滇軍で靖国(国家安泰)を目指した。12月には貴州の袁祖銘と四川の熊克武と共同して、川滇黔(四川、雲南、貴州の略称)靖国連合軍総司令官になった。
翌1918年2月には成都に入城し、四川を再占領。同時に、陝西、湖南、福建などの軍閥首領に「靖国」を呼びかけることで、唐継尭は四川、雲南、貴州、湖北、河南、陝西、湖南、福建の8省の連合軍総司令官を自称し、雲南派軍閥の威信は頂点に達した。同時に、広西派(桂系)と直隷派(直系)軍閥と結託して北伐計画を頓挫させ、広州の護法軍人政府を改変し、孫文を広東から追放した。
1921年2月、唐継尭は駐川滇軍(駐四川雲南軍)第1軍長顧品珍の裏切りに遭い、香港に逃れた。1922年春、彼は以前の部下と雲南の土匪を買収して顧品珍を奇襲して射殺し、権力の座を取り戻した。
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顧品珍の部隊の大部分は張開儒が率いて貴州を通じて広西に入り、後に楊希閔が率いて、広東の陳炯明追放に参加した。しかし彼らは人民を圧搾し、唐継尭などの軍閥と結託して広州革命政権の奪取を企みたため、1925年6月の武装反乱で、広東革命軍に消滅させられた。
唐継尭は雲南に帰った後に民治を吹聴して民衆を欺き、また民治党を組織して自分の思うがままにした。また貴州に軍隊を派遣して軍事のコントロールと経済的搾取を行い、他の省に支配を拡張することを図った。1925年に孫文が逝去後、広東・広西地盤を占領することを企んだが、国民革命軍の北伐の成功に従って、1927年2月に滇軍の将校の龍雲、胡若愚、盧漢などの政変に遭い唐継尭は失脚、民治党は解散させられた。
龍雲は、国民党政府の下に再編成された雲南省において自治を得て、日中戦争時には、抗日統一戦線を支持し、滇軍20数万を派遣、日中戦争勝利に多大な貢献をした。しかし、日中戦争の終了後、龍雲は「雲南モンロー主義」を主張して蒋介石と対立し、雲南省から追放された。龍雲の後継は盧漢が継いだが、程なく雲南派の軍閥統治は終焉を迎えた。
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