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大鵬幸喜

大鵬 幸喜(たいほう こうき、本名:納谷 幸喜(なや こうき)、1940年(昭和15年)5月29日 - )は、大相撲力士。第48代横綱である。身長187cm。血液型はB型。樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町で育った。

父親はウクライナ人でコサックのマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨでハーフである。納谷は母の姓である。幸喜の名は皇紀2600年にちなんでつけられた。また、イヴァーンというウクライナ語名があったという。1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる事もある[1]。

同じくハーフ(日本とウクライナ)である野球の太田幸司同様、大変な美男子だった。当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。大鵬本人は言葉に取り上げられること自体には好意的ではあるが、一方で「巨人と一緒にされては困る」と後に語っている[2]。理由は、自身がアンチ巨人だった事と、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にしてくれるなという気持ち、何より「大鵬の相撲には型がない」などと盛んに批判された時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から返されたこともある為。引退後、「生まれ変わってもう一度相撲取りになったら、今度は柏戸さんのような相撲取りでいたい」とこぼしたこともあった。

入幕から横綱になるまでは柏戸に3勝7敗と合口が悪く、特に1961年(昭和36年)3月場所、1月場所に優勝してヨーロッパ招待旅行に行っていた柏戸に敗れた時は『こんなに稽古しても、ヨーロッパに行ってろくに稽古もしてない柏戸関に勝てないのか』と泣いて悔しがったという。

色白の大変な美男であるためか若い頃の人気は物凄く、特に男性から人気の高かった柏戸と比べて、大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという有名なエピソードがある[3]。全盛期には彼にあやかって「幸喜」と命名された男児がたくさんいた[4]。俳優・劇作家・脚本家の三谷幸喜はそのうちの一人である。

日刊スポーツの相撲担当評論家であり、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載している(偶数日目は高砂浦五郎=元大関朝潮の「大ちゃん 大分析」)。

来歴 [編集]
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少年期から横綱昇進まで [編集]
ウクライナ系として樺太に生まれ、敗戦に伴い北海道に引き揚げることになり、船で稚内に降り立つ。乗っていた船はその後小樽に向かったが、留萌沖で攻撃を受け沈没した。母子家庭だったため家は貧しく、北海道に渡っても安住の地はなくしばらくは各地を転々とした。納豆を売り歩きながら家計を助けた話はよく知られている。

彼の四股名は、師匠二所ノ関が最も有望な弟子につけるべく温存していたものであり、その点では師匠の期待以上によく育ったといえるだろう。新十両が決まり、四股名がもらえることが決まった時には大砲と書くと思ったらしく、師匠に話すとそれは「おおづつ」と読むと言われ、横綱大砲の話をされたという[5]。

1960年(昭和35年)1月場所新入幕で初日から11連勝で12勝3敗の好成績を挙げた。幕内で初めて敗れた相手が柏戸である。翌場所は7勝に終わり唯一皆勤での負け越しとなったが以降横綱昇進まではすべて2桁の勝ち星であり、その後9勝に終わったのもたった1場所である。11月場所で新入幕の年にも関わらず初優勝し、場所後史上最年少の20歳6ヶ月で大関へと昇進(関脇昇進の20歳3ヶ月も当時の最年少記録だった)[6]。入幕した年に大関昇進を果たした力士はその後も現れておらず(入幕から6場所での大関昇進も年6場所制後最短)、同じく入幕した年に年間最優秀力士賞獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てる。

1961年7月場所で2度目の優勝、9月場所でも優勝し場所後に柏戸と共に横綱昇進(同時昇進は史上4例目)。このとき21歳3ヶ月。照國の持つ年少昇進記録を大幅に更新した(のち北の湖に破られる)。新入幕の翌年に横綱になった力士はそれまでになく、その後も出ていない。三賞受賞数が少ないのは、早くに大関・横綱に昇進したためである。

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2009年03月31日 11:40に投稿されたエントリーのページです。

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