2009年12月11日

砲撃

砲撃
第一次世界大戦の戦死者で最も多かったのは塹壕内で砲撃を受けたことによるものであった。しかし砲撃によって防御側を殺傷できるのは不意打ちのときのみである。砲撃が始まれば、歩兵部隊は塹壕の横に設置された地下壕へ避難する。地下10メートルの深さに設けられた地下壕は、当時のいかなる野戦砲弾でも破壊することはできない。
歩兵による突撃
犠牲を覚悟で歩兵による突撃を反復して行えば、いつかは防御側の第一線塹壕を占領できるだろう。だが防御側の塹壕は二重、三重のラインで築かれているのが通常であるので、犠牲覚悟の攻撃を繰り返さねばならない。さらに、第一線塹壕は元の敵陣であるから防御側の砲兵の照準は完璧であり、攻撃側がその場に留まっていては砲撃の餌食となってしまう。
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毒ガス
毒ガスは、イープルの戦いでドイツ軍が初めて使用した。使われた毒ガスは比重が空気より重いため、塹壕内や地下壕内の歩兵部隊に被害を与えることができる。だが、初期の毒ガスは呼吸器系統に作用する塩素系ガスであったことから、防御側の歩兵がガスマスクを適切に着用すれば、さほどの戦果をあげることはできなかった。そのため、皮膚からも作用するマスタードガスや、ガスマスク着用を困難にする催涙剤の併用戦術などが登場したが、これらも進撃する自軍兵士まで影響を受ける問題があった。
坑道戦
坑道戦は、防御側の塹壕の地下にトンネルを掘り進み、地下で爆弾を爆発させて塹壕を破壊するものである。イギリス軍はメシヌの戦いで坑道戦を実施し、地下に仕掛けた600トンの爆弾で1万人以上のドイツ兵を殺傷した。だがこのときのトンネルの掘削には1年以上の作業期間を要した。坑道戦はあまりにも時間がかかりすぎ、特殊なケースを除けば実用的ではない。

2009年11月30日

喫煙の歴史

タバコの喫煙は、ヨーロッパの探検家が到達する前から、アメリカ先住民によって行われており、1500年前のマヤ文明における美術作品にも喫煙が描かれている。マヤ人たちはタバコを生贄を捧げる儀式、占い、魔除けといった宗教的な用途で用いていた。また、北米のインディアンは、現在も宗教的な儀式にタバコの葉を用いている。インディアンたちの喫煙法は、地面に浅い穴を掘り、枝や土でドームを作り、中でタバコの葉を燻した煙を、何箇所か開けた穴から跪いて吸うというものだった。また、粘土で作ったパイプも使われており、あまり首の曲がっていない、直管型のものだった。このクレイパイプは、数千年前のインディアンの遺跡からも出土している。

1492年10月12日、クリストファー・コロンブスは乾燥したタバコの葉をアラワク族から与えられたが、興味を示さずうち捨ててしまった。その後ロドリゴ・デ・ヘレスとルイス・デ・トレスが喫煙を目撃した最初のヨーロッパ人となり、ヘレスがアメリカ州の外で喫煙した最初の人物として記録されている。16世紀には喫煙の習慣は主に船乗りの間で一般的なものであった。1560年代にジョン・ホーキンス の船員によってイングランドにもたらされたが、1580年代に至るまで大きな影響を与えることはなかった。イングランドでは1820年代後期から広く浸透し始めた。1828年、スペインで紙巻きタバコ(シガレット)が登場し、一定の商業的な拡張をもたらしたが、20世紀初頭に安価な機械製造法が普遍化されると、その依存性により爆発的に喫煙人口が増加した。
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第一次世界大戦の間、タバコ製品は典型的な軍事補給物資の一つであった。以降、紙巻きタバコを用いた喫煙は、魅力的で気楽な生活様式の一部としてタバコ会社により宣伝され、女性の喫煙も社会の中に浸透し始めた。

2009年11月26日

酒の歴史

酒の歴史は非常に古く、有史(文字の歴史)以前から作られた。

人類が最初に造った酒は蜂蜜酒だという説がある。水で薄めた蜂蜜は、自然酵母の働きで酒になるからである。また、サルが木の洞に果物を集めると、その果汁が発酵して猿酒になるという伝説があるが、これは疑わしい。いずれにしても検証されていない。

 また 口噛み酒が起源と言う説も有り 南米 アジア アフリカのごく一部で現在も行われている各種穀物を口に入れ噛み砕いた後 瓶や甕に吐き出し集め発酵を待つという原始的な酒造法が低アルコールながら有史以前に広まっており 古代日本でも巫女がその役を務め 「醸す」の語源となっていると言う説もある

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2004年12月、中国で紀元前7000年ごろの賈湖遺跡(かこいせき)から出土した陶器片を分析したところ、米・果実・蜂蜜などで作った醸造酒の成分が検出されたという報告があった。いまのところこれが考古学的には最古の酒である。

オリエント世界では、紀元前5400年頃のイラン北部ザグロス山脈のハッジ・フィルズ・テペ(Hajji Firuz Tepe)遺跡から出土した壺の中に、ワインの残滓が確認された。また紀元前3000年代には、シュメールの粘土板にビールのことが記録されている。シュメールの後を継いだバビロニアで、最古の成文法であるハンムラビ法典の中にビール売りに関する規定が記されている(第108条?第110条)。

2009年11月13日

日本による外債発行の歴史

日本政府が発行した最古の外債は1870年4月23日(明治3年3月23日)にロンドンで出された新橋駅?横浜駅間の鉄道建設費用を捻出する為の9分付英貨国債100万ポンド(当時の相場で488万円相当)(→日本の鉄道開業)と1873年に出された秩禄処分のため費用を捻出する為の7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)である。これは発行額面100ポンドにつき92.5ポンドで売出されるというという未開国の発行基準扱いによるものであった。[1]更に大隈財政下で紙幣整理のために5,000万円規模の大規模な外債導入が検討されたが、保守派は「大量の外債発行は日本の植民地化を招く」としてこれを非難し、更に明治天皇直々の発言(「節倹の聖旨」)を持ち出してこれを阻止した。以後、政府も外債発行に慎重となり、また当時の日本が銀本位制を採用していて当時の国際的な基軸通貨であったイギリスポンドの金本位制と合致しないこともあり、暫くは行われなくなった。
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日本の外債発行が再開されるのは、1897年に金本位制に復帰した後である。1899年に4分利付英貨公債1,000万ポンドを発行して成功を収めた。特に日露戦争においては総額にして約8億円相当の戦費をイギリス・アメリカ両国より外債の形で調達し、更に戦後の財政難に対応するために1908年から3年間に更に7億円の外債を発行した。この時期には東京市・京都市・大阪市・横浜市などの主要な都市や南満洲鉄道などの企業も海外において公債を発行して資金調達を行った。当時日本は多額の貿易赤字で正貨流出に悩まされていたが、正貨の不足による金本位制の崩壊阻止に結果的には役立つことになった。この時期出された外債の総額は約16億円に達し、内国債の総額を上回った。

2009年10月31日

骨折

骨折(こっせつ・Fracture)とは、直達外力や介達外力により骨が変形、破壊を起こす外傷であり、構造の連続性が絶たれた状態のことである。

骨折は全ての骨に起こり得る。骨は元来、若干の柔軟性・弾力性・可塑性を持ち、健康な骨は骨折しにくいが、限界を超える強い外力や反復した外力、骨に腫瘍などの病変が存在する場合は軽微な外力でも破壊される。また、鎖骨や手の舟状骨など構造的に外力が集中しやすく、折れやすい骨も存在する。ヒトの骨折のうち、日常生活で骨折を起こしやすい骨としては、鎖骨、肋骨、指骨、鼻骨、尾骨、橈骨、尺骨、脛骨、腓骨等が挙げられる。また、骨折して完治した後、個人差や治療法によるが、左右の腕や足の長さに違いが生じることがある。但し、成長期では自然治癒力により同じ長さに矯正されることも多い。手術により矯正することもある。
骨折にはその状態により治療法が大きく異なることから、様々な分類が為されている。
バレンタインデー
けの付く言葉
オレンジ活用
靴に囲まれて
ステキ・手作り
テニス
転勤
棚田
オーケストラ
体外離脱
射撃
栄養ドリンク
白地図
フェンシング
腎臓病
相撲
図書館
縄跳び
悪性高熱症
風水

外傷骨折
健康な骨に対して外力が加わったことによる骨折を指す。事故による骨折などはこれに分類される。なお、骨折の直接原因が外力が加わったものであっても、病的原因がある場合には病的骨折に分類される。
疲労骨折
健康な骨に対して繰り返し外力が加わったことにより、疲労が発生して起きる骨折を指す。なお、一度あたりにかかる外力は骨の耐久度以下のものであるにも関わらず、疲労により起きる為、不全骨折(亀裂骨折)となりやすい。

2009年10月20日

キツネ踊り(きつねおどり)は

キツネ踊り(きつねおどり)は、姫島盆踊りの中でも最も有名な踊りである。顔を白く塗ってひげなどを描き、白ずくめの衣装に身を包んで白ギツネに扮した子供が、提灯を吊した傘を持ち、キツネの仕草をまねたユーモラスな踊りを踊る。古くから伝わる踊りで、本来は成年男子が踊る激しい踊りであったが、戦後、子供が踊るようになった。踊りの先頭はキツネ姿ではなく浴衣、羽織に編笠姿であることから、この踊りは、キツネが庄屋をからかう様を表したもので、横暴な庄屋への風刺であったとする説もある。これも北浦地区に伝わる踊りである。

猿丸太夫(さるまんだゆう)は、鶴崎踊等でも踊られる大分県の盆踊りを代表する優美な踊りである。西浦地区の女性によって踊られる。
医学・女性のための情報集
バレンタインデー
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銭太鼓(ぜにだいこ)も、アヤ踊りと同様に青年男女が二人一組となって踊る踊りで、男性は銭太鼓(フグの皮を張った片面の太鼓に孔開き銭をつけたもの)を持って、女性の間を縫うように踊る。これも、男女の動きが対照的な踊りである。松原地区に伝わる。

国東市の国東港伊美地区と姫島港との間に姫島村営フェリー「姫島丸」が就航しており、姫島盆踊り期間中の8月15日、16日には、盆踊りの終了時刻まで臨時便が運航される。この両日には、フェリーに自動車を積載することはできず、国東港伊美地区に駐車場が用意される。

2009年06月21日

広告(こうこく)は、宣伝活動の一つである

「情報を伝達させたいと考えている者」が広告主として、放送事業者、新聞社、出版社、ISPなどの「媒体保有者」によってあらかじめ用意されたスペースや時間枠といった「メディア」を購入し、メディア特性に合わせて製作した「情報を含めたコンテンツ」を出稿し、あらかじめ決められたとおりに行う「放映」「放送」「出版」などの行為を「媒体保有者」が行うことによって、広告主が出稿した情報が「公衆(特定不特定は関係ない)」に伝達する、という形態の活動となる。

広告は枠を広告主が買う形態なので、広告の出稿、宣伝する時期、内容、規模その他を広告主側がコントロールすることができる(広告主がコントロールできないのがパブリシティやPRである)。ただし、広告主となる企業が数多く、メディアも種類が多いため、適切な広告活動は難しいことがある。それを防ぐため広告主とメディア双方から手続きの権限を委ねられ、仲立ちをするのが広告代理店である。広告主、広告代理店双方の利害関係により、広告主の宣伝活動に最初から広告代理店が絡んでくる事も珍しくない。

当初は視覚に訴える広告がメインだったが、メディアの発達に伴い聴覚に訴える広告も登場した。新聞やテレビ(コマーシャル)、野立て看板、デジタルサイネージなどの視覚に訴えるもの、ラジオなどの聴覚に訴えるものの他、USAトゥデイなど嗅覚に訴える広告も登場している。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

広告それ自体は、世界でそう変わるものではないが、広告関連企業は日本と世界で大きく違う。いわゆるメガ・エージェンシーと呼ばれるもの(特に上位4つ)が非常に大きい位置を占めている。機能別に細かく分かれる大小さまざまな代理店が一つのグループを組んでいる。結果、電通よりもはるかに巨大な企業グループが世界には存在することとなる。無数の代理店が集合して巨大グループとなる背景には、合併や統合が相次いでいたこと、「一業種一代理店」という業界慣習があることが背景と考えられる。つまり、ある代理店が自動車会社をクライアントとしたなら、ライバル企業の広告には関われない。よって、規模の利益を追求すればグループ化、ということになるのである。

世界の主なメガ・エージェンシー(4大メガ・エージェンシー) [編集]
オム二コム・グループ (Omnicom Group)
WPPグループ (WPP Group)
インターパブリック・グループ (Interpublic Group of Companies)
ピュブリシス・グループ (Publicis)

2009年06月02日

鞘(さや)は、刀身に擦り傷が付かないように

鞘(さや)は、刀身に擦り傷が付かないように軟質な朴(ほお)の木を、加工後の反りを防ぐために10年以上寝かして使う。刀身を差し入れる方を「鯉口」(こいくち)、逆の側を「小尻」または「鐺」(こじり)と呼ぶ。鐺の端には鐺金具と呼ばれる保護具が付くことがある。指表(さしおもて=帯に差す時、外になる側)の腰あたりにある栗形(くりがた=角や金属製の部品)に下緒(さげお)を通して帯からの脱落を防止する。栗形の鐺よりに返り角(かえりづの)や逆角(さかづの)、折金(おりがね)と呼ばれる突起部品が付けられる場合もあり、刀身を抜く時に鞘ごと抜けないようにこの部分を帯に引っ掛ける。笄(こうがい)と呼ばれる整髪等に使う小さなへら状の装身具を格納するために、鞘の主に鯉口近くの指表に設けられた笄櫃(こうがいびつ)と呼ばれる溝が設けられるものがある[3]。
プレゼント 美容整形 冠婚 予備校 園芸 スクール 交通地図 ネイル 遊園地 しみ取り 介護サービス 癒し 求人募集 お祝い 成人病 美容 多汗症 お土産 セミナー 飲料水 パソコン 観光 やせる 交通 審美歯科 増客対策 損害保険 行政書士 賃貸 リラク 事務用品 介護 多汗症 結婚 海外留学 学習 九州沖縄 健康 ダイエット しみ取り 転職 グルメ 多汗症 料理 リラク 贈答品 通信教育 墓地 学習指導

鞘は塗り加工などが行なわれて完成すると、内部の汚れは容易に除けなくなる。これを避けるために鞘の内部に別の小さな鞘を入れた「入子鞘」(いりこざや)と呼ばれるものがあり、二枚に分割可能な構造をしている。

親指を鍔にかけて鞘から少し押し出す所作を「鯉口を切る」という。

柄 [編集]
柄(つか)は茎(なかご)を包みこみ、使用者の握りを確かなものにするために重要な役割を持つ部分である。多くは木製で、その上に鮫皮を張り柄巻きと呼ばれる帯状の細い紐を巻く。

柄と刀身を貫いて固定するための小片を目釘、通すための穴を目釘孔と呼ぶ。目釘には主に煤竹という燻上した肉厚の竹が用いられる。目釘には真竹が最適であり、100年以上寝かせたものが最適であると言われている。また目貫(元来は目釘の役目をしていた)という装飾がつけられる。また柄の一番手元に来る部分は柄頭と呼ばれ、装飾と実用を兼ねた金属が付けられることも多い。

鍔(鐔) [編集]
日本刀は刀身と拵え(こしらえ=外装品)を別々に分けることができるが、ハバキや切羽(せっぱ=鍔に添える金具)などで鍔は刀身に固定されている。

2009年04月30日

唐継尭の時代

第三革命(護国戦争)後期においては、唐継尭は大幅な軍拡を実施し、四川に勢力を広げ、1917年4月に至る8ヶ月間、四川の劉存厚の軍隊と成都、資陽、内江などで何度も衝突した。同年7月に段祺瑞が国務大臣復帰後に、中華民国臨時暫定憲法を回復することを拒絶、唐継尭は孫文の掲げた護法旗幟の名を利用して軍拡を実行し、滇軍で靖国(国家安泰)を目指した。12月には貴州の袁祖銘と四川の熊克武と共同して、川滇黔(四川、雲南、貴州の略称)靖国連合軍総司令官になった。

翌1918年2月には成都に入城し、四川を再占領。同時に、陝西、湖南、福建などの軍閥首領に「靖国」を呼びかけることで、唐継尭は四川、雲南、貴州、湖北、河南、陝西、湖南、福建の8省の連合軍総司令官を自称し、雲南派軍閥の威信は頂点に達した。同時に、広西派(桂系)と直隷派(直系)軍閥と結託して北伐計画を頓挫させ、広州の護法軍人政府を改変し、孫文を広東から追放した。

1921年2月、唐継尭は駐川滇軍(駐四川雲南軍)第1軍長顧品珍の裏切りに遭い、香港に逃れた。1922年春、彼は以前の部下と雲南の土匪を買収して顧品珍を奇襲して射殺し、権力の座を取り戻した。

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顧品珍の部隊の大部分は張開儒が率いて貴州を通じて広西に入り、後に楊希閔が率いて、広東の陳炯明追放に参加した。しかし彼らは人民を圧搾し、唐継尭などの軍閥と結託して広州革命政権の奪取を企みたため、1925年6月の武装反乱で、広東革命軍に消滅させられた。

唐継尭は雲南に帰った後に民治を吹聴して民衆を欺き、また民治党を組織して自分の思うがままにした。また貴州に軍隊を派遣して軍事のコントロールと経済的搾取を行い、他の省に支配を拡張することを図った。1925年に孫文が逝去後、広東・広西地盤を占領することを企んだが、国民革命軍の北伐の成功に従って、1927年2月に滇軍の将校の龍雲、胡若愚、盧漢などの政変に遭い唐継尭は失脚、民治党は解散させられた。

龍雲は、国民党政府の下に再編成された雲南省において自治を得て、日中戦争時には、抗日統一戦線を支持し、滇軍20数万を派遣、日中戦争勝利に多大な貢献をした。しかし、日中戦争の終了後、龍雲は「雲南モンロー主義」を主張して蒋介石と対立し、雲南省から追放された。龍雲の後継は盧漢が継いだが、程なく雲南派の軍閥統治は終焉を迎えた。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%8D%97%E6%B4%BE" より作成

2009年04月15日

汎スカンディナヴィア主義

汎スカンディナヴィア主義(英: Scandinavism、瑞: Skandinavism、丁・諾: Skandinavisme)とは、北欧諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)、特に「ノルマン人」の連帯と統一を目指す思想運動である。北欧諸国が、欧州列強の脅威に囲まれる中で、北欧の団結と統合を体現化したナショナリズムの昂揚である。この時代、知識人たちが好んで用いた言葉、「ノルデン(Norden)」は、汎スカンディナヴィア主義の概念となった。この「ノルデン」という言葉は、現在でもスウェーデンの国歌の一部分として用いられている。

概要 [編集]
元々は、1829年に行われた文芸運動が起源であった。この運動は、三王国の文学作品・雑誌・新聞などを相互に融通しあい、北欧の文化的一体性と経済的発展を目指した文化活動が主体であったが、この時、スウェーデン・ルンド大学の作家が、「北欧の分裂と抗争の時代は終った」と語った事から、北欧三ヶ国の知識人、学生らによる社会的・政治的運動へと拡大して行った。1838年の冬には、コペンハーゲン大学とルンド大学の大学生が、氷結したエーレスンド海峡の氷上で邂逅し、北欧の連帯と団結を誓い合った。そしてその運動は、学生たちによるスカンディナヴィア学生大会に発展して行く。

この運動に対し、当時のデンマークとスウェーデンの国王は、当初は関心を抱かなかったが、1844年に即位したスウェーデン=ノルウェー王オスカル1世は、積極的に支持し、これを国是とした。また、1848年に即位したデンマーク王フレデリク7世も同調し、急速に実現へ向けて動き出すことになる。

1840年以降には、北欧三国で学生大会や、知識人による大会が行われる様になり、政治的なスローガンが掲げられ、急速に政治的な運動を帯びて行った。1840年代後半には、フィンランド大公国のヘルシンキ大学の学生が参加し、ロシア帝国がこれに抗議するという事態となった。ロシアの介入を懸念した北欧諸国の政府は、この運動を不快視し、文化活動と政治運動の乖離が見られる様になる。

こうした中、国際情勢は急激に悪化する事となる。ヨーロッパに吹き荒れた「1848年革命」は、「ウィーン体制」の秩序を崩壊させ、北欧はヨーロッパの国際問題に巻き込まれて行くのである。勃興する帝国主義、特に後に「汎ゲルマン主義」へと発展する「ドイツ統一問題」そして、盟主ロシアによる「汎スラヴ主義」が北欧を覆い、その脅威に対抗するために、北欧の団結と統合が真剣に唱えられる様になった。こうした北欧諸国民の意を組む様に、スウェーデン王オスカル1世は、汎スカンディナヴィア主義の盟主及び牽引者となり、デンマーク国王フレデリク7世及びデンマーク政府も、オスカル1世が打ち出した政策を一致団結して行う事となった。

かかる時代背景の中、北欧では、デンマークとドイツ統一問題を巡る「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」と言う民族問題に巻き込まれて行く。汎スカンディナヴィア主義運動は、北欧の団結をスローガンにオスカル1世の指導の元、デンマークという兄弟国の救済に奔走するのである。1848年にそれは「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」として現実化したが、最終的に汎スカンディナヴィア主義の昂揚を背景に、1852年にスウェーデンの調停による「ロンドン議定書」が締結され、デンマークの優位で休戦した。しかし休戦協定は、汎スカンディナヴィア主義を必要以上に盲信するデンマーク政府の過度な強硬姿勢により混迷を深め、このシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が、汎スカンディナヴィア主義の挫折の伏線となるのである。

また、1853年には、ロシア帝国とイギリス・フランスの列強間で「クリミア戦争」が勃発した。この戦争に対し、オスカル1世は、ロシアに対し宣戦布告を考えたが、フィンランドの奪回の他にフィンランド人の救済という意図も部分的にあった。なお、フィンランドにおいても、「1848年革命」の後、ロシアへの反感から、民族主義が昂揚して行った。フィンランド人の中にも、フィンランドが北欧の一員であると言う自負が芽生え、フィンランドナショナリズムへと発展して行くのである。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争後、汎スカンディナヴィア主義は一時停滞したが、1856年にオスカル1世は、スカンディナヴィア学生大会に出席した学生らをドロットニングホルム宮殿に招き、「今や北欧諸国間の戦争は不可能となった」という演説をした事から、再び昂揚して行く。さらに1857年には、スウェーデン・デンマークの軍事同盟が提唱された。これは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題に対する自衛策であったが、スウェーデン政府はこの案を否決した。オスカル1世は1859年に没したが、その子であるスウェーデン王カール15世に国策として引き継がれた。しかしこの頃には、すでに汎スカンディナヴィア主義は退潮の兆しを迎えていた。それは、北欧諸国の政府による幕引きでもあった。その一方で、北欧諸国民による北欧三国による統一国家が真剣に検討されていた。汎スカンディナヴィア主義の火は消えず、時のデンマーク国王フレデリク7世に後継者が生まれないことを契機に、フレデリク7世がカール15世を養子にするという形で、スウェーデン・デンマーク王室主導の「スカンディナヴィア連合王国」も模索されていた。これは、中世以来の「カルマル同盟」の再興の意味を持っていた。統一国家の首都はイェーテボリになるとまことしやかに囁かれた。

1863年、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争再来の暗影の中で、スウェーデンのイェーテボリで国民会議が開かれた。その主旨は経済会議であったが、出席たちの北欧の政治統合を目指した「北欧連合議会」の設立が主張された。これは「北欧連合国家」樹立を目指した、汎スカンディナヴィア主義の最後の昂揚であった。

1864年、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題は、デンマークによる新王朝グリュクスボー朝が、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の継承を宣言した事から、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は再開された。この頃、すでにデンマークを除く北欧諸国の政府及び政治家たちは、汎スカンディナヴィア主義に対しては冷淡となっていた。スウェーデン政府は、国王の政治問題への介入を、民主政治に対する越権行為であると考えていた。カール15世は、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に対して参戦する意志を表明したが、政府は拒絶し、ここに汎スカンディナヴィア主義の理念は消滅した。これら全てを見切っていたプロイセンのビスマルク外交の前に、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争はデンマークの大敗に終り、汎スカンディナヴィア主義運動は潰えた。北欧統一の夢は、厳しい国際社会の現実の前には無力であったのである。この帰結は、北欧各国の自立化へと向い、以後、北欧は、よりクレバーな形での重武装中立主義へと変遷して行った。1905年のノルウェー独立は、その一因と言える。

なお、1872年に即位したスウェーデン王オスカル2世は、ドイツ帝国による「汎ゲルマン主義」に傾倒している。これは、形を変えた汎スカンディナヴィア主義の表れであったと同時に、北欧の団結と統一を拒絶した、スウェーデン政府への抵抗であった。

北欧諸国の連帯が実現するのは1世紀経った1952年の北欧理事会設立まで待たねばならなかった。

年表 [編集]
民族主義の成立背景

8世紀-11世紀 - 「ヴァイキング」の時代。この時代は、「ノルマン人」としての最後の活動となる
8世紀 - ダーネヴィアケが築かれる。シュレースヴィヒとホルシュタインの原境界となる
1016年 - 北海帝国時代( - 1042年)
1397年 - カルマル同盟締結。北欧諸国の民族主義の原風景とされる
1460年 - デンマーク王国(カルマル同盟=オルデンブルグ朝)が両国を同君連合とする
1523年 - スウェーデン王国の独立。北欧は抗争の時代に入る
1789年 - フランスでフランス革命勃発。民族主義を原理とする国民国家形成
1803年 - ナポレオン戦争勃発。民族主義がヨーロッパ各地に「輸出」される
1814年 - ウィーン体制。スウェーデン=ノルウェーの成立と、フィンランドの北欧からの離別
汎スカンディナヴィア主義の昂揚と挫折

1829年 - ルンド大学の作家エサイア・テグネルが、デンマーク人の作家・詩人エーレン・シュレーエルに月桂冠を捧げる。汎スカンディナヴィア主義の起源
1838年 - ルンド大学とコペンハーゲン大学の大学生がエーレスンド海峡上で邂逅
1839年 - コペンハーゲンで第一回スカンディナヴィア学生大会
1844年 - オスカル1世、スウェーデン=ノルウェー王に即位
1848年 - フレデリク7世、デンマーク王に即位。ヨーロッパで1848年革命
1848年 - フレデリク7世、絶対王制を廃止した6月憲法を制定
1848年 - 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(ゲルマニズムとスカンディナヴィズムの衝突)
1851年 - クリスティアニアでスカンディナヴィア学生大会
1852年 - コペンハーゲンで学生大会
1852年 - オスカル1世の調停により、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争終結(ロンドン議定書)
1853年 - クリミア戦争( - 1856年)。フィンランド人の民族主義を刺激
1856年 - ウプサラで学生大会
1857年 - オスカル1世、「スウェーデン・デンマーク防衛同盟」を構想
1859年 - オスカル1世死去。カール15世即位
1860年 - カール15世、デンマーク訪問。フレデリク7世と「スカンディナヴィア連合王国」樹立を構想
1862年 - コペンハーゲンで学生大会
1862年 - コペンハーゲンで、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの学生による反プロイセンデモ
1863年 - 北欧国民経済会議。主義者たちによる連合国家の樹立と、連合議会設立が主張される
1863年 - カール15世とフレデリク7世、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国死守で合意。フレデリク7世、シュレースヴィヒ公国の併合を宣言する(11月憲法)
1863年 - フレデリク7世死去。新王にグリュクスボー家のクリスチャン9世即位
1864年 - ビスマルク、最後通牒。デンマークの拒否により、プロイセン・オーストリア、デンマークに宣戦布告。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
1864年 - デンマークの敗戦。汎スカンディナヴィア主義の衰退
北欧の分裂と北欧理事会の成立

1875年 - オスカル2世、ドイツ帝国のベルリン訪問。「汎ゲルマン主義」に同調
1905年 - ノルウェー独立。スウェーデン=ノルウェーの解消
1914年 - 「三国国王会議」。第一次世界大戦の中立宣言
1917年 - フィンランド独立
1918年 - フィンランド内戦
1920年 - 民族自決権により、北シュレースヴィヒがデンマークに帰属
1939年 - ソ芬戦争( - 1941年)
1940年 - 第二次世界大戦によるナチス・ドイツの北欧侵攻
1949年 - スウェーデン外相による「スカンディナヴィア防衛同盟」構想
1952年 - 「北欧理事会」の設立
1989年 - 「東西冷戦」終結。ノルディックバランスの解消

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